「人類文学最高傑作」とも称されるドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」
重厚な内容で「人間」のあらゆる面が描かれる、まさに世界文学の傑作中の傑作です。
読み終えると、世界の見え方が変わるような力を秘めています。
そんな「カラマーゾフの兄弟」の中でもとりわけ重要で、この作品の根本を表していると言われるのが「大審問官」という章です。
50ページ足らずの決して多くはない分量ですが、ここにはドストエフスキーの宗教観や世界の見方がまざまざと現れているのが特徴的。
この章だけでも一つの文学作品にすることができるのではないかと思わされるような重厚な内容になっています。
しかし、それだけにこの章の内容は非常に難解で、何を意味しているのか読み取りにくいのも事実。
そこで今回は、この「大審問官」の大まかな設定やあらすじをさらった上で、その要点を紹介していきたいと思います。
それでは早速いきましょう!
「大審問官」の設定とあらすじ
「大審問官」は登場人物のイワンが独自に考えた叙事詩のこと。
時は16世紀のスペイン。
激しい異端審問が行われる中、人の姿をしたキリストがこの世に降り立つところからこの叙事詩は始まります。
「奇跡」を人々の前で披露するも、大審問官たちに捕らわれて牢に入れられてしまうキリスト。
ちなみに「大審問官」とはキリスト教における異端審問を担当し、異端と判断した者を次々と火炙りに送っていた者です。
そして捕らえたキリストに対し、大審問官は自らのキリスト教観を披露する説教を繰り広げます。
信仰の対象であるキリストに対し、それを信奉するはずの大審問官が逆に説教を垂れるという大胆すぎる設定が、この叙事詩の見どころです。
キリスト教への絶望や怒りにも満ちた大審問官の長きにわたる話を聞いた後、キリストは大審問官にやさしく「接吻」をするという形で、この叙事詩は締めくくられます。
超ざっくり説明するとこんな感じなのですが、これだけではさっぱりだと思います。
そのため以下では、その説教の中身について深ぼって見ていきましょう。
「大審問官」の要点まとめ
「自由」とは
この章でメインで語られることになるのが、「自由」についてです。
「自由」と聞くと、私たちは手放しでそれを肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。
「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが、必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。
と大審問官は言います。
もともと人間はキリストの教えに応えられるほど高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しい存在であるとも語られます。
たしかに人から言われたことをやっているだけの方が、あれこれ考える必要が無くて、結果的に楽ということはよくあります。
自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。
自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自由を自らの意思で教皇に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、(奴隷的)幸福を得た。
というのが大審問官の主張です。
ではなぜ人々はこのような一見不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。
「自由」と「支配」
相反するこの二つが両立することを可能にする論理を、大審問官はこう述べます。
人々はただ無理解のまま自らの自由を差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上で、なおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。
自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。
この事実を踏まえた上で、人々のために「嘘」をつき続ける自分たちに愛が無いとは言えないだろう。
というのが大審問官の主張です。
ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。
つまり教会や教皇などの支配する側は、真の意味でキリストの教えに準じていないことに気づいているということ。
それでも人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。
今で言うと、政治を政府に任せきりになることや自らの労働力を会社に委ねるようなことに似ているのでしょう。
ここに関しては、いつの時代も変わらない人間の性質を感じることができます。
「良心」について
大審問官は支配の中でも「良心の支配」が一番重要であると語ります。
人間は単に生きることを望むのではなく、何のために生きるかを重視する性質がある。
そのため自分の中での納得感を感じながら生きていきたいと考える。
そんな中で人々は教会に服従することこそ、キリストの教えに準じるものだと信じている。「善悪の判断」の一切を教会に任せることで楽に生きていくこともできる。
と大審問官は主張します。
だからこそ教会は人々のこうした思いに応える形で、彼らを支配しながらも「自由」を与えることが可能になっていたということになります。
「統一性」について
人間の性質としてもう一つ挙げられるのが、人は何かにひれ伏す対象を求めている上、そこに「統一性」を求めているという点です。
「自分が信じているものの正当性を確かなものにしたい」
という感情が人々の中には少なからず存在します。
「自分の信仰こそ絶対」
皆がこう考えて、それを他者にも強制しようとするからこそ、自分と違う宗教や宗派の者を攻撃したり、互いの正義のために争うことになります。
これは今でも自分たちが信じるもののために、戦争やテロ行為が行われている実情を見ても納得できます。
人間はもともと「反逆者」
崇高な理想よりも、低俗でも全人類を魅了する食糧などを与えてやれば、争いがなくなると大審問官は主張します。
人間を愛して期待しすぎるがゆえに、人間に対して大きな要求をしすぎるのは理想主義なのではないかとキリストを批判します。
大多数の人たちはそんなキリストの教えに従うことすらできず、ごく限られた少数のみがそれらの人々の犠牲の上に理想に到達することができる。
キリスト教が信者に求めるものは、当時の社会の実情から鑑みても、曖昧なものばかりであり、人々はかえって自由が苦しく感じられてしまっていた。
そして自由の下であらゆる科学や思想を学び、ついにはキリスト教それ自体に疑いの目を向けるようにすらなってしまう。
もともと弱くて卑しい人間は、そんな天上の理想よりも目の前の「安定」に手を伸ばすのも当たり前であると主張されます。
三つの力
人々は信仰の対象に三つの力を求めると大審問官は言います。
それが「奇跡」「神秘」「権威」です。
それらはかつてキリストが自らの行いや言葉で斥けたものでもありました。
しかしキリストがいなくなってから1000年以上経ったこの世界において、人々はもうこれら三つの力を求めざるを得なくなった。
そして信じられるものが欲しいからこそ、人々は自ら「奇跡」を作り始めるようになった。
と大審問官は主張します。
一見怪しげな呪術や魔女といったものが流行していた当時の背景には、人々のこうした背景があると考えたのでした。
これらを踏まえた上で、キリストの名の下に、その三つ全てを提供しながら人々を「支配」する自分たちの正当性をも主張していきます。
無心論者イワンと信仰者アレクセイ
叙事詩「大審問官」を語り終えた後、最後はイワンとアレクセイの会話でこの章は締めくくられるのですが、ここも重要なシーン。
無心論者であるイワンと神を心から信じるアレクセイが対照的に描かれます。
「大審問官」の話からも分かるように、何も信じられないイワンはどこか人生に絶望し、最後はカラマーゾフ的な堕落や自らの無神論に行き着くしかないと考えます。
そんなイワンをアレクセイは救いたいと考えているのですが、主義主張の相違からこれといった解決策を提示することができません。
ここからもやはりキリスト教の理想主義的な側面が垣間見えます。
そしてアレクセイは、ただ怒りや苦悩に苛まれるイワンを「それでも受け入れて全てを許す」という姿勢を見せるに留まるのみ。
アレクセイはこのことを叙事詩の中のキリストになぞらえて、自らもイワンに「接吻」することで伝えます。
それを「剽窃」と指摘しながら、イワンも自分に対して真摯なアレクセイを最後の拠り所としているよのを感じられるのも印象的。
そして二人が別々の方向へ向かってその場を後にするのが描かれ、この章は締めくくられます。
やはりどこまで行っても分かりあうことができない二人の様子がありありと描かれます。
まとめ
今回は「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の要点をまとめてきました!
キリスト教体制とその内部の人が抱える矛盾を描いているこの章。
そこからは政治や社会、戦争や信仰など、現在に至るまでの人間世界のあらゆるものに通ずる根本を感じることができます。
これだけ「人間」について考えさせてくれる機会となる「カラマーゾフの兄弟」
やはり他にはないような面白さや奥深さがあるだけに、難しくても何度も読み直す価値があると言えるのでしょう。
またここではまだですが、物語の最後にはこの問題へのドストエフスキーなりの答えが提示されるのでそちらも読んでいただければと思います。
この記事が、皆さんの「大審問官」の理解を少しでも助け、この作品をより一層楽しむ一つのきっかけとなれば幸いです!